ハイチの村に新しい学校が建つきっかけをつくった少年のストーリー

ハイチのラ・ショーン村に建てられたピカピカの新しい学校。

この学校は、村でかつて起こった悲劇をくりかえさないため

に建てられました。(清田)

 

https://www.we.org/stories/tragedy-leads-to-education-access-in-rural-haiti/

 

 

ジュベルソン・ピエールは、好奇心旺盛な男の子でした。

 

ジュベルソンは2年生でした。彼は熱心な勉強家で、学校

の外でお父さんにいつも質問をしていました。「作物はど

うやって育つの?種まきを手伝ってもいい?」ジュベルソ

ンは、農家になりたいとも思っていました。

 

ジュベルソンのお父さんのジュルナーは、12人の子どものう

ちの1人である彼に、学校に集中するように言いました。学校

が大好きだったジュベルソンは、どうやって農業をするのかも

知りたがっていました。9歳のときの彼の目標は、学校に一度

も通ったことのないお父さんを手伝って、家族の農場をもっと

いいものにすることでした。2人は、宿題をきちんとやったら週

末にお父さんを手伝ってもよい、というルールを決めました。

 

ジュベルソンが平日にやることは、いつも大体同じでした。

 

ジュベルソンは、ハイチの農村部にあるラ・ショーン村の他

の子どもたちと同じように、毎朝5時くらいに起きました。お

兄さん、お姉さんたちは動物に餌をやるなどの仕事をしま

した。ジュベルソンはそれを手伝うと、顔を洗い、学校に行

くために着替えをしました。6時少し過ぎになると、1時間半

の道のりを歩き始めました。何学年か上のお兄さん、お姉

さんたちについていくために急いで、8時に始まる授業に間

に合うように通学しました。 

ラ・ショーン村の子どもたちは、隣の村にある学校に通うた

めに流れの速い川を渡りました。すぐ近くに学校がないだ

けでなく、一番近くの学校までの道のりには、ボートも橋も

ありませんでした。

 

毎日、子どもたちは服を間に合わせの袋に押し込み、濁

った水の中を歩きました。大雨のせいで、川の水位が高

く、流れが速くなることが時々ありました。川底に足がつ

かない子どもたちは、服をぬらさないように片手をあげな

がら、犬かきで苦労して泳ぎました。足元の悪い川岸にた

どり着くと、もう一度服を着ました。そして、泥だらけの小道

から大きな道へ出て、学校へ向かいました。

 

 

2008年5月23日金曜日。ジュベルソンはいつもの平日と

同じように、お兄さん、お姉さんたちと学校へ出かけました。

 

ジュベルソンは、その日家に帰ってきませんでした。

 

お父さんのジュルナーは、他の子どもたちの叫び声を聞い

たとき、川沿いの畑で仕事をしていました。ジュルナーと近

所の人たちは、川の土手へと急ぎました。叫び声の理由が

分かると、大人たちは下流へ走ってジュベルソンを探しまし

た。近所の人がジュベルソンを見つけました。ジュルナーは

ジュベルソンを川から引き上げ、蘇生を試みました。

 

ジュルナーの弟(ジュベルソンの叔父)のウィリーは近くの畑

から川に駆け付け、ジュルナーがまだ息子を救おうと覆いか

ぶさっているのを見ました。ジュベルソンが川から引き上げら

れてから、すでに1時間が経っていました。何が起こったのか

は明らかでした。ジュベルソンは学校に行こうとして溺れたのです。


「何が起きたのかを知ってショックでした」ウィリーは通訳を

介してクレオール語で言います。「甥は本当にいい子でした」

 

ジュルナーは弟の話を聞いて頷きます。彼は何も言いませ

んでしたが、目には涙がたまっていました。2人は教室に座

っています。ジュベルソンが生きていたときにはなかった教

室です。

 

ジュルナーは、穏やかで落ち着いた声で話し始めます。

「確かに、私は息子を亡くしました。でも、私たちの学校

がここにあるのは彼のおかげなのです」


ジュベルソンの死後、深い悲しみと同時に、怒りと危機感が

村中に広がりました。どんな子どもだって、教育を受けるた

めに命を危険にさらしていいはずがありません。親たちは、

村のリーダーであるウィリーに助けを求めました。

 

ウィリーはよく、争いを解決するように頼まれたり、地域

の開発計画に意見を求められたりしました。ウィリーは5

年生まで学校に通うことができました。子どものころ、ジ

ュルナーが学校に通うのを諦めたので、弟のウィリーは

学校に行くことができたのです。兄弟の家庭では、子ど

も全員分の学費は払えませんでした。教育を受けたこと

でウィリーは地位を手に入れ、尊敬されるリーダーになりました。


ウィリーは回想します、「親たちが私のところに来て言うよう

になりました、『ウィリー、あなたしか頼れる人がいません。

お願いです、この村にどうやったら学校ができるかを考えて

ください』と」


ウィリーの主導で、プラスチック板を使って簡素な教室が建

てられました。柱には木が、屋根には金属板が使われまし

た。そして、ささやかな先生の給与のために、地域で資金が

集められました。「子どもの頃から、私は教育の重要性を心

に留めてきました」ウィリーは言います。彼は、自分のために

お兄さんが自らの教育を犠牲にしてくれたことを分かっていま

す。12人の子どもの父親でもあるウィリーは、自分の子どもた

ち全員と甥、姪たちにできる限りよい教育を受けてほしいと思

っていました。

 

2009年、あの悲劇から半年以上がたったころ、ラ・ショーン

村に1教室の学校が開校され、35人の生徒たちが姿を見せ

ました。保護者たちは、先生のためにチョークを1箱ずつ交

替で買いました。

 

生徒数は翌年には4倍、150人以上となりました。入学者

は次第に増え、資格を持った教師や子どもたちが入るた

めの教室がさらにたくさん必要になりました。金属板と防

水シート、木切れから教室が作られました。椅子が足りず、

2人がけベンチに4、5人が座りました。雨の日には授業はな

くなりました。

 

親たちは生徒たちに川を渡らせたくなかったのですが、校

舎の建設費や先生の給与をこれ以上負担することはでき

ませんでした。親たちはもう一度、ウィリーに助けを求めま

した。

ウィリーは地元の行政に働きかけました。彼は行政に、ジュ

ベルソンの失われた命のこと、そして村びとがラ・ショーン村

に学校を建てるために力を合わせ、その結果子どもたちが

川を渡らずに済むようになったことを伝えました。2012年に、

ウィリーはラ・ショーン村の村びと重要な目標を達成しました。

学校が正式に行政によって認められました。教師の給与を行

政側で負担するころになったのです。

 

 

2015年、ウィリーの根強い教育を受ける権利の擁護活動

が縁となり、WEチャリティー(フリー・ザ・チルドレン)との共

同事業が行われることになりました。WEチャリティーの包括

的で持続的な開発モデルは、教育への壁をなくし、人々を貧

困から救うことを目指しています。とりわけ、ハイチでは、農村

部、迫害を受けた人々、孤児などの支援に尽力しています。当

団体は、インフラ整備の質の高さ(WEチャリティーでは建設の際、

耐震技術を取り入れたデザインを使っています)と実効性のある計

画作成により、ハイチで評価されています。

 

WEチャリティーは、新しいパートナーとなってくれる村を探し

ていて、行政側に接触しました。地元当局は、村における差

し迫ったニーズが、WEチャリティーのノウハウを通じてと満た

されることを期待して、ラ・ショーン村を勧めました。

 

WEチャリティーのチームは、ウィリーとジュルナーに会い、

学校の沿革を知ると、すぐに共同事業を始めました。2016

年に、各国からの寄付に支えられて、新しい学校の建設が

始まりました。今度は、電気がつけられ、防水シートではな

くレンガでできた学校です。屋根が洗い流される心配もあり

ません。内壁は教育に役立つデザインで、外壁は輝いて子

どもたちをひきつけました。

 

入学者数は増え続けています。新しい学校には500人

以上が入れるようになります。そして、それは村の誇り

にもなっています。


「学校の外観の綺麗さは、教室の中で起きていることの素

晴らしさを象徴しています」ウィリーは言います。「外側から

見た景色は変わりました。学校を外から見ると、価値のある

ことがここで起きているのが分かります」

 

ユデラインは6年生で、ジュルナーの末娘です。ある月曜日

の放課後、ユデラインは台所のテーブルで宿題をしていまし

た。玄関の向こうに、明るいピンク色の壁をした新しい学校が

見えます。彼女やクラスメートがもうすぐ通うことになる新しい

教室です。数学が大好きなユデラインは、高校を卒業して大

学に行き、看護師か先生になりたいと思っています。「新しい

教室ができてとても嬉しいです」彼女はお兄さんの死がきっか

けでできた新しい学校について言います。

 

 

 

ウィリーは言います、「私たちはジュベルソンを活動家だと

思っています。彼の生き様、そして最期がそれを物語って

います。この学校は彼の遺産だと思っています」

 

ラ・ショーン村にいる子どもたちのおおよそ60%は学校に通

っています。WEチャリティーは、グランモン・テ・ニューという

親向けのプログラムを始めました。このプログラムは、子ど

もを学校に通わせたいけれど困難を抱えている親のために、

ヤギの飼育を通した収入の機会の提供や、リーダーシップトレ

ーニングを行っています。特に、学校に行く機会のなかった親

に合わせてプログラムは計画されています。

 

「私のような教育を受けたことのない人間なんて、なんにも

知らなくてなんの取り柄もないですからねえ。」ジュルナー

自身はこう言います。

 

しかし、それは事実ではありません。ジュルナーは学校に通

えませんでしたが、教育の重要性を多くの人に伝えました。

そして、愛する家族を失うという耐えがたい悲劇を経験しな

がら、村の未来、そして村びとの未来に永遠に貢献し続け

る遺産を築き上げたのです。

 

(原文記事執筆:ワンダ・オブライエン 翻訳:翻訳チーム 

明畠加苗 文責:清田健介)


ハイチの村びとの健康と復興を支える菜園

2010年のハイチ地震で被災したドスパレ村。いまこの村で

は、村出身の若者たちが中心となり、食を通じた支援・復

興が行われています。(清田)
 

https://www.we.org/stories/we-villages-programming-teaches-food-sustainability-and-self-sufficiency-in-haiti/

 


 

ハイチのドスパレ村には「タダでありつける昼ごはん」はあり

ません。オスレット・エスティンピルは、このことを誰よりも知

っています。

 

ハイチの人里離れたこの村の校庭には、オオバコの木が果

実の標識のように高く生い茂っています。生徒たちは、彼ら

の昼食になる作物を大事に育てる学習をし、自らの食べ物

を育てる大切な担い手として活動しています。何列にも並ん

だトマトやナスビ、オクラやヤマイモが、350人を超える生徒

の暖かい給食になるのです。

 

持続可能な農業の学習によって、生徒たちは現在では確

かに満足な食事ができ、また確実に生涯に渡って有効な

栄養価の高い食物の栽培方法を知ることができます。こ

のことは同時に、開発学の専門家の間で知られている

「食糧安全保障」(かつてはこの村で全く保証されてい

なかったもの)を保証すると言う意味にもなります。

 

ドスパレの学校の卒業生オスレットは、ここの生徒たちの重

要な学びを支えています。彼は人生をこの村での農業学習

の普及活動に捧げています。

 

子どものころ、オスレットは、成長したら何になりたいのか―

農学者になりたいと―はっきり自覚していました。彼は、最上

の穀物の育て方、一粒の種子から最大の収穫を得る方法を

見つけ出したいと思っていました。両親が小さな土地を耕して

いて、そのため彼は自然に彼らが何をどのように栽培している

のか知りたいと思うようになりました。

 

しかし、ハイチの農村の田舎育ちでは、彼の思い通りに事

は運びませんでした。両親は二人とも〈当時この村では珍

しい〉小学校を卒業するまでになっていましたが、高校には

進学しませんでした。高校は村を出た町にあり、そのため、

授業料に加えて食事付き宿泊料金がかかります。農学の学

位を取得するには、首都ポルトープランスで学ばなければ

なりませんでした。

 

こんなことでオスレットが後退することはありませんでした。

 

オスレットの両親は、息子の大地への愛着に特別な関心を

持って見ていました。母親は、父親の農耕から得られる食物

の他に家族の必需品を賄う収入源として小さな家畜を飼いま

した。両親はよく働き貯蓄していきました。ついに、両親はオス

レットが近隣の町の高校を卒業するに足る財源を集めました。

 

オスレットにはこれで終わりということではありませんでした。

両親は―末っ子の弟の夢のために結束した姉や兄と共々に

支援を続け、オスレットは都会のポルトープランスの専門学校を

卒業しました。

 

その後、彼が外で得たすべての知識を村に持って帰る時が

来ました。いまオスレットは、ハイチのWE Villages(フリー・ザ

・チルドレン)の事業を支える農学者になっています。彼はド

スパレの学校菜園(と言うよりむしろ野外教室として知られる

)を主宰しています。村との強い結び付きによって、彼はロー

ルモデルとしての地位を、菜園に集う人たちとの交流によっ

て固めて来たのです。

 

生徒たちが責任を持って菜園の世話をしている理由を聞か

れると、彼の目は輝きます。フランス語で「ウィ、ボーン!(は

い、いいですよ)」と言って彼は、水源の利用、乾季での効率

的な苗の育て方、植え付け技術や、作物の選別など、訓練

の技術について10分間の説明に入ります。

 

彼は、人に「食物の科学」を教えるのが大好きなのです。

 

ハイチに関して言えば、国情を考えると自給自足の農業

の普及が急務です。この国では、緊急支援―2010年の

地震の後の災害救助を目的とした―が、継続的に行わ

れ、救援物資の配布が常態化していました。そのため地

域の貧困の連鎖をぶち破るというより、他国への依存か

ら脱出できなくなり、かえって現地の農業を衰退させてし

まったのです。

 

これは、WEのやり方ではありません。WEは長期的な視野

に立った食糧支援を行いたいと願ってきました。

 

ドスパレ村は、WEが地震後パートナーを組んで学校全体を

再建した最初の村でした。食糧支援は、農村に住む、故郷

を追われた、孤児になったといった子供たちに充実した教

育を提供するためにWEがこの国で担っているミッションの

基礎となるものです。飢餓をなくしてこそ生徒たちは勉強に

集中できるのです。

 

WEの支援を受けて、オスレットはそれを実現しているのです。

 

「僕は、農業は生活の科学だと知りました」とオスレットは言

います。「ここに戻って働くことが、僕にとって夢でした。栄養

のある食事を摂っていない子供が教室で勉強に集中すると

いうのはとても難しいことです。僕が生まれた場所に帰って

きて、ここで生徒たちに僕の知識を伝えていくことが、僕にと

って大変重要だったのです」。

 

 

小学5年生のローディン・デルマスは農業の学習に熱心な

生徒です。彼女はクラスメートと共に授業の実技として菜

園作りに励んでいます。友人たちと大声で笑ったり両手を

掲げたりして、オオバコと高さを競うばかりの巨大なサトウ

キビの茎を、これを見なさいとばかりに見せびらかしています。

 

「農機具を使って畑づくりをするのが好きです。また種を蒔

いて収穫時に苗が成長していく様子を見るのが好きなんで

す」と彼女は語ります。「こうすることで自分に誇りが持てる

のです」。この若い生徒が菜園で見せる屈託のない性質は、

彼女のこれまでのことを知ればもっと胸を打つものがあります。

 

ローディンの両親は地震で亡くなりました。彼女は、ドスパ

ル村の女子収容施設で生活しています。10代後半の歳で

すが、小学校を卒業しようと固く心に決めています。「この

強さは、両親からもらいました」彼女がこのことを皆に訴え

ると、彼女の表情は、真剣そのもの、厳しくなりました。「母

さんがよく言っていました『あなたは一番年上。私は子ども

たち皆に期待しているけれど、一番期待しているのは、あ

なたよ』。私は母のこの言葉に勇気づけられています。だ

から私はおとなになったら強くて影響力を持つ人になれる

よう勉強したいと、心から思っています」。

 

ジャクネル校長は、菜園は身体以上に心に栄養を与え、生

徒たちの自信と生きる力を築いていく上で力となるものだと

信じています。

 

「私は生徒たちが自信を強めていくのを見てきました。種を

蒔くのも生徒だし、農作物を収穫して、給食を準備する調理

人のところに持って行くのも生徒たちなのです。生徒たちは

これが自分たちの食糧であり、それを育てる責任も自分た

ちにあることを知っています」。

 

校長は17年間この学校に勤めてきました。彼はオスレット

の思い出として、クラスで「とても親切で、とても協力的な」

少年だったと言います。このかつての教え子は、大きくなっ

たら農学者になるんだと、よく話していました。

 

いまこの校長は、オスレットのことをいまの生徒や家族の見

本であると、誉めたてています:「保護者会で、教育を受けて

成果を上げた人彼を引き合いに出します。彼はかつてこの学

校の生徒でした。そして彼はよその土地で必要な知識を習得

し、その知識を私たちに伝えようと、この村に帰ってきました。

私たちは、彼が夢を実現する過程を見てきたのです」。

 

農作物が生い茂る校庭と新築された学校の調理場〈給食

全部の賄ができる〉は村全体にとって大きな誇りなのです。

菜園から生徒たちが学ぶことの他にも、学校の農業の訓練

を行事と村びと向けに行い、父兄にも改良された農業技術

を教え、自宅の庭でやってみるよう指導していきます。オス

レットの目指すところは、全ての村で学校菜園を始動させる

ことです。

 

ハイチは自然災害や農作物を危機に追いやるほどの極端

な天候に見舞われ続けていますが、それでもなお、ドスパ

レ村は支援物資に依存するような状況には陥っていませ

ん。その理由は、この村で育った若者たちが外で学び、そ

して次々と村へ戻り、村の復興に関わっている様子をみれ

ば明らかです。オスレットのように、改革魂にあふれた地元

出身のチェンジメーカーが、外で学んだことを村びとたちに

伝えているこの姿は、国際支援のあるべき姿を私たちに示しているのか

もしれません。

 

(原文記事執筆:ワンダ・オブライエン  翻訳:翻訳チーム 

松田富久子 文責:清田健介)

 


一頭のヤギと、一人の村人がハイチで起こした大きなチェンジ

世界や地域を変える行動には、いろんなパターンがあると

思います。一人の行動がきっかけだったり、大勢の行動が

きっかけだったり。場合によっては動物が変化を起こすこと

もあるかも。今回はハイチで変化を起こした村人とヤギを紹

介します。(清田)
 

https://www.we.org/stories/gift-of-a-goat-provides-income-and-education-in-haiti/

 


Pierre Oleusは、そのヤギの飼い主であり善き父親です。
 

彼は、ハイチのMarialapa村というところで週ごとに結集す

る親たちのグループGranmoun Tèt Nouの会合では、紹介

を要しません。この72歳の男性によってこのループは成り

立っているのです。
 「Pierreのヤギ」が、このグループを触発したのです。厳密

に言うと、このヤギは、村に学校を建設したWE(フリー・ザ・

チルドレン)への彼からの贈り物でした。当時の彼は、この

ヤギが親たちのグループを刺激し、100人以上の住民の生

活を改善することになろうとは思っていませんでした。ただ、

学校建設に対して感謝を示したかっただけのです。
 

2010年、ハイチで起きた壊滅的な地震の後、WEは、中央

部Hinche地域で、内陸部に焦点を当てて、この国での支

援を倍増させました。内陸部の県での人口は、この自然

災害後に増加し、学校の必要性が、以前よりさらに高ま

ったのです。
 

ハイチ、Marialapa村には、校舎がなく、12人の生徒は、

ヤシの葉と木の枝でできた粗末な教室で授業を受けて

いました。WEは、テントを提供しましたが、そのことで生

徒数は一気に96人に増えてしまいました。この生徒数の

急増は、この村が、どれほど教育の機会を望んでいたか

を端的に示すものでした。
 

Pierreは、やる気の塊でした。この村のリーダーである

Pierreは、たとえ小学校一年生程度しか教育を受けて

いなかったとしても、13人の子どもの父親である彼は、

自分自身の子を含めて、村の子ども達の教育環境がも

っと良くなるように望んでいました。WEが村の学校建設

に関わった時、Pierreは、WEにヤギを一頭贈ることを約

束しました。それは、村からの感謝の意を表すためで、数

ヶ月分のたくわえを要したであろう、たいした贈り物でした。
 

Pierreは、その言葉どおり、2014年の学校開校式の席上

で、1頭のヤギをWEのスタッフにプレゼントしたのです。

WEは、Pierreがこのヤギの世話を続けて欲しいというお

願いをして、ありがたくこの名誉を受け入れました。彼は、

そのWEからの依頼を快諾したのです。
 

しかし、半年も経たない内に、Pierreは、新たな展開に

出くわしました。、そのヤギが子を産んだのです。さら

に、それから何度も子を生んだのです。
 

 

Pierreとその妻Lericeは、WEと会合を持って、子ヤギたち

をこれからどうするか話し合いました。「『自分が、あなた方

のヤギを育てます。なんの問題もありません。』と伝えたの

を覚えています。一方、『私には手助けしたい子どもが一人

います』と、スタッフに伝えたのを覚えています。」Pierreはこ

うふりかえります新しい学校への生徒の登録は、350人以上

に増えました。しかし、Pierreを含めて、親たちは、子どもたち

を学校へ通わせるのに四苦八苦していました。というのは、彼

らには、学費を払う余裕がなかったからです。
 

WEは、支援を引き受けましたが、さらに、もう一押しをしま

した。他の親たちにも、自分たちの子どもを学校へ通わせ

る余裕ができるようにするための、ある提案をPierreに持ち

かけました。
 

まず、Pierreには、WEのヤギのオーナーになってもらい、

ヤギを売ってそのお金で授業料を支払うことを許可しまし

た。しかし、その前に、授業料支払いに悩んでいる村人に、

健康な雌ヤギを贈与して欲しいとお願いしました。ヤギを贈

与する対象者を選定する際のルールは次の3つでした。1.

自分の子どもが、学校に登録済みであること。2.18ヶ月間

の家畜の飼育訓練プログラムに参加すること。3.自分のヤ

ギから最初の雌子ヤギが産まれた際は、別のふさわしい村

人に与えることに同意すること。
 

こうして、Granmoun Tèt Nouというグループが誕生しました。
 

クレオール語で、この名称は「私たちおとなの分別」という意

味です。Pierreは、これを「自立」と説明しました。つまり、子

どもたちのために必要な、親たちの経済的自立です。
 

Pierreは言います。「これは、私たちが、自分たちの尊厳を

持って生きようという決意をかたちにしたグループです。私

たちはおとなではありますが、経済的な自立を成し遂げる

ことでこそ、私たちは本当のおとなになれえます。つまり、

私たちは、子ども達に必要な物を与えることができますし、

彼らの面倒を見てやれます。」
 

今、Marialapaで11ある親のグループの活動に弾みをつけ

るために、何頭かのヤギが購入されています。会員は、必

ず最初に生まれた子ヤギを、その会に返し、会の裁量で分

配したり、売ったりします。それぞれの会員は、自分たちの

群を育て、必要な時に、その後生まれた子ヤギを売って収

入を得ることができます。これらの結集グループは、ハイチ

で計画中のWEの「収入源確保」活動の要になっています

が、収入源の確保にとどまらない成果を挙げています。


 家畜の飼育訓練に加えて、18ヶ月プログラムが公式

のものとなり、コミュニケーションスキル、リーダーシッ

プ、問題が発生した際の解決法を教えてくれます。ヤ

ギを受け取ることが、受講の一番の目標ですが、もう

一つ、大事な要素は、このプログラムの終了時に執り

行われる卒業式です。親たちは、子どもたちの卒業式

には思いをはせていますが、まさか自分たちに卒業式

が待っているなんて夢にも思っていません。

 

 

 これは、親の一人Sourine Ciceronも同様です。彼女は、

Dos Palais出身のシングルマザーです。ここは、Granmoun

Tèt Nouのプログラムを始めた二番目の村です。彼女の16

歳の娘Nadiaは、学校でこのプログラムのことを聞きました。

Nadiaは、それを将来の教育を保証してくれる機会と捉えまし

た。というのは、自分の家の経済的な大変さが分かっていた

からです。母Sourineは、正規の学校教育や研修を受けたこ

とのない人でしたが、すぐにこのプログラムに申しこみました。
 

[私をやる気にしてくれるのは、希望です。ヤギがお金を産み、

それが、収入になります。その収入は、子ども達の学費の支払

いに充てられます私はヤギに希望を見ました]この5人の子を持

つ母親は話します。
 

Sourineは、会合を欠席したことは一度もありませんでした

し、卒業式ではずっとほほえんでいました。
 

娘Nadiaも同じ思いです。「私は、母のことを誇りに思いまし

た。このプログラムに参加したきっかけを作ったのは私でし

たし。私は学校に行かせてもらいました。それでこのプログ

ラムについて知ることもできましたし。それから、母は、研修

のすべてをやり通して、卒業を迎えることができました。]

 

Sourineのヤギは、また妊娠しています。彼女は、子ヤギ

をNadiaの授業料を確保するために売ろうと思っています。

「私の心は幸せ一杯です」とNadiaは言っています。
 

一頭のヤギの贈り物が、たくさんのことをなしています。そ

の贈り物は、Granmoun Tèt Nou,のような収入原を産みだ

す事業の誕生つながりました。WEは現在、この事業を全

世界の支援地域で展開予定です。この事業は、子どもた

ちの将来を守るための「経済的自立」を与えてくれるでしょう。
 

「今日の生活が明日より良くなる」という確信があります。こ

のことが、私に明日への希望を与えてくれています。Sourin

eはその希望を、娘に伝えています。

 

(原文記事執筆:ワンダ・オブライエン  翻訳:翻訳チーム 

山下正隆 文責:清田健介)

 


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